『§幸せにくいのないように生きる』
「日本は便利になり若者がダメになる?」

 

 

先日床屋に行ったときの話である。

 

 

この床屋は三代続いている。

 

 

三代目の20代後半の孫が理容学校を卒業し、修行を終えてこの店に来てから、私の担当としてついてくれている。

 

 

もう今年もあっという間という会話から、流れでおせち料理の話になったのである。

 

 

「おせちって高いですよね。僕はおせち買うくらいなら好きな物を食べる派ですね」

 

 

彼はすでに結婚して子供も一人いる。

 

 

正月の元旦は、実家である父の家とお嫁さんの実家に行き、次の日からはちょっと贅沢な肉を頬張るとか。

 

 

両方の実家も、祖父がいるときは祖母と母が作っていたそうであるが、祖父母がなくなってからは、おせち料理を作る手間を考えると買った方がいいと、おせち料理は毎年買っているようである。

 

 

彼に私の家の話を少しした。

 

 

私の家では伝統を引き継ぎ、そう言うものだと思い込んで?はじめに食べる三品がきまっている。

 

 

“数の子と田作り(ごまめ)、たたきごぼう”である。

 

 

子孫繁栄の数の子。
片口イワシの稚魚を干して、飴炊きにした田作り。

 

 

片口イワシを農作物の肥料として使った田畑が豊作になったことにちなみ、五穀豊穣を願っているとか。

 

 

私が住む関西では“ごまめ”と呼び、「五万米」の字を当て呼ばれる。

 

 

そして、たたきごぼう。

 

 

地中深くに根が入っていくごぼうを食べて、家の基礎が堅牢であることを願うとか。

 

 

どれもこれもおせち料理には意味がある。

 

 

そんな話を彼にすると、会話が途切れた。

 

 

そして彼は言う。

 

 

自分がもの心ついたとこきには、スーパーが正月2日から開いていて、初詣には行くものの父が言うところの正月気分はすでになくなっていた気がすると。

 

 

それでも彼は、生まれ育った地元の床屋で働いているせいか、子供の頃からよく知ってる年配の方とも接しているせいか、けっこう昔の話にもついてこれて、なかなか話が面白いのである。

 

 

 

まあ、聞くところによると、おせち料理が今のように定着したのも江戸時代と聞くと、時代に流れの中で、風習も変わってくるにもいたし方がない気もする。

 

 

ただ、“感謝”に対する大切なこだわりのある私にとって、数の子、田作り(ごまめ)、たたきごぼうといったおせち料理には意味がある。

 

 

そこには”感謝の念“が込められていることが、忘れ去られて行くことには、寂しさ以上に危惧を覚える。

 

 

理容師の彼が、来年か再来年あたりからスーパーが3日から開くと言った時、「コンビニがあるから別に不便ではないですけどね」と言った言葉に、今の若者の世代を感じる。

 

 

 

日系ブラジル人二世で、ブラジル・サンパウロ出身の元プロサッカー選手で、現在テレビ東京(テレビ大阪)系列のスポーツ番組のサッカー解説もしている、セルジオ越後氏が私の知る大先輩に語ったこんな言葉を聞いた。

 

 

「日本は便利になって若者はダメになる。24時間開いてるコンビニも、あれは若者をダメにする。好きな物だけをいつでも好きな時間に買えたら、人間の心が育たたなくなる」と。

 

 

もう今の時代、若者に限った話ではないかもしれないが、学生と約20年関わって来てそれを痛感している今、彼らが担っていくこれからの時代。

 

 

『幸せにくいのないように生きる』ために、様々なことが便利に容易に手に入る時代に、感謝という“有り難み”を知る機会が、必要不可欠のように日々接していて思うのである。

 

 

最後に、最近“ありがとう”の反対は、“当たり前”と言う言葉をよく耳にする。その言葉だけが、拡散していく。

 

 

ただ“ありがとう”の心は、いつも当たり前に持っているべきものである
と思うのだが。

 

 

いつもお読みいただき、ありがとうございます。
 

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