「気づきの宝箱」:罪悪感と気づき  

 

 

人は、ときに不安と罪悪感に押しつぶされそうになる。

その恐れは、自分をすくませ動けなくさせてしまう。

 

セラピー物語の瑞枝が、 クッションを抱きしめそうであったように。

 

 

善悪で言えば、 罪悪感というぐらいだから、

それは自分が“悪”であると思う。

 

人はいつも、 善悪の“善”ではなく、“悪”を選択してしまう。

 

本当は、ただそこに、

善悪と言う言葉の概念があるだけなのかもしれない。

 

 

もし、“悪”という言葉の概念がなど、ないとしたらどうなるだろう?

 

「ただ自分にとって、ためにならないことがあるだけ」 だとしたら。

 

 

自分は「悪い」と罪悪感を覚えることと、

「ただ自分にとって、ためにならないことがあるだけ」だとしたら、

どちらが自分らしくなれるだろうか。

 

それは「悪い」という罪悪感ではなく、

「ただ自分にとって、ためにならないことがあるだけ」

という気づきだとしたらどうなのだろうか。

 

 

気づくことと、罪悪感はちがう。

 

人はひとを愛するチャンス(機会)を求めている。

 

ひとは気づきではなく罪悪感を選択するとき、

ひとは自分を愛せなくなってしまう自分がただそこにいる。

 

「ただ自分にとって、ためにならないことがあるだけ」

という気づきを持ったなら、 自分を責めることもなくなる。

 

ただそこには、 ひとを愛するチャンスだけが広がっている。

 

 

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