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(家の庭に実がなっていた南天)

 

今日は母の9回目の命日。

母が亡くなる前日、母は二つの奇跡の言葉を残しました。

一つは私に。もう一つは、父にでした。

 

その母が、父に残した最期の言葉をお話したいと思います。

 

父と母は、いつもケンカが絶えませんでした。

それは、私が物心ついた幼い頃からでした。

 

そして、母からいつも離婚の言葉がついてでました。

 

それでも何とか離婚せずに、父と母も夫婦を全うしました。

 

亡くなる3年半前、母は急性心筋梗塞から6日後に血栓が右脳に飛んで、

左側が半身不随になりました。父と私の母への介護生活がはじまりました。

 

父は、あれだけ母とケンカをして罵声を浴びていたにも関わらず、

本当に頭が下がるほどの献身的な介護を母にしました。

 

その時父は、70歳を超えて時間的に余裕があるとは言え、

それはかなりの労力だったと思います。

 

あるとき私は、そんな父に聞きました。

「なんで、あれだけ馬鹿にされていたのに、ここまでできるの?」と。

 

すると父は一言いいました。

「夫婦やから」

 

今までずっと二人のケンカを見てきた私には、信じられない父の言葉でした。

それからも、父の母への変わらぬ献身的な介護は続きました。

 

それから、母が亡くなる前日、私は一人で病院へいきました。

その頃の母は、多臓器不全による意識もなく話しかけても返事もない、

ただ呼吸をしている状態でした。

 

でも、その日は様子が違っていました。話しかけると、

無意識状態で返事が返って来たのです。

 

私は嬉しくなりたくさん話しかけました。母から帰ってきた言葉は、

途切れ途切れに単語だけでしたが、それでも会話ができることは、

私にとってこの上ない喜びでした。

 

面会時間が迫ってきて、私は帰るときに最後に話しかけました。

 

「お母ちゃん、誰かわかる?」すると母は、

「お父ちゃん」と言ったのでした。

 

それまで「私の名前を言っていたのに」と思いながら、

それが、母の最期の言葉となりました。

 

帰って父にそのことを伝えると、父は私の話を聞いて、

今まで見たことのないような照れ笑いをしたのでした。

 

しばらく経ってから、私は父に言いました。

「最期の言葉が、“お父ちゃん”やったな」

 

すると、父は照れくさそうに子供のような笑顔で笑っていました。

 

私はその父の笑顔を見て思ったのです。

 

父は母からのその言葉を聞いて、母への様々な思いをゆるし、

そして、父も母からすべてをゆるされたのだと。

 

母が亡くなる直前無意識の状態で言った、私への言葉、

そして父への最後となった言葉。

 

それは、まさに母が家族の絆を結んだ、母からの無条件の愛だったのでした。

 

 

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