“心の底から自分らしく生きるための”

『ありがとうの効果と秘訣』

 

 

なぜ今さらありがとう?の核心

 

 

前回「感謝が確実に減ってきている」が、「ものごとを当たり前に思っていることが、感謝を忘れ、ありがたみを忘れた社会にしている」お話をしました。

 

今回はさらに深く「当たり前がなぜ感謝をしなくなり、ありがたみを忘れた社会にするのか」の核心についてお話したいと思います。

 

 

その前に、「ありがとう」の話が「ありがたみ」の話になっていると思われているかもしれませんので、念のために話しておきます。

 

 

「ありがとう」と「ありがたみ」は、同じ感謝の言葉です。

 

なぜなら、語源が同じ「有り難い(ありがたい)」から派生した言葉だからです。

 

言ってみれば、「ありがたい」と言うコインがあって、その表が「ありがとう」で、その裏が「ありがたみ」と言えるかもしれません。

 

今、その裏の「ありがたみ」が忘れられて、どんどん見えなくなっていると言うお話です。

 

 

さて、今日の本題に入りますと、物質的価値観の時代の中で、ものごとがらくで簡単に手に入り、しかも早くて便利になって、それが「当たり前」になってきている。

 

その結果、「ありがたみ」が忘れられてきた社会になっているお話をしました。

 

では、なぜ「当たり前」が「ありがたみ」を忘れた社会にするのでしょうか。

 

 

「当たり前」が、はじめは役に立つか立たないか、と思っていたことが慣れてくると、自分にとって都合が良いか悪いか。必要か必要でないか。らくからくでないか。損か得かという価値判断をするようになっていくからです。

 

この説明だけでも、「ありがたみ」が薄れていく感覚がわかるのではないでしょうか。

 

 

さらに、これが「なぜ今さらありがとう」なのか、私が危惧する核心です。

 

それは、私たちが、らくで簡単にものを手に入れ、しかも早くて便利なものに慣れ過ぎると「ありがたみ」も忘れていき、そして、私たちの考える力(思考力)や想像する力(想像力)が、確実に低下していくからです。

 

 

つまり、日々便利になって簡単に選択するたけで生活を送ることができるので、

ものを考えたり想像することが少なくなると、自分に都合のいい短絡的思考になっていくのです。

 

 

自分に都合のいい短絡的思考になると、その結果どうなるでしょうか。

 

そこには、『気配りや心配り、思いやり、つながりといった、気がつく心』が失われていくのです。

 

気がつく心が失われていくと、人に気遣うことが面倒くさくなり、そうなると気遣われることも面倒になって、ますます自分から人との関わりを持たなくなっていくのです。

 

 

「おもてなし」とう言葉がありますが、「おもてなし」とは、単に人が喜ぶことをするのではないと思います。それだとよくあるサービスの範疇だと思うのです。

 

「おもてなし」とは、その人の役に立つことを『気がつく心』だと思うのです。それは決してマニュアル化できない、もてなす人の心そのものだと思うのです。だから、もてなされた人が感動するのではないでしょうか。

 

 

今、私たちが住む世の中は、「他人にあまり関心を持たない風潮」だと言われたりしますが、21世紀は「心の時代」と言われ、精神的価値観を大切にする世の中になってきています。

 

それは、「愛・感謝・思いやり・つながり」を大切にする社会です。

 

 

このお正月に80歳を超える伯父と話をしたときに、

「食べ物には生命が宿っているのに、それへの『ありがたみ』が忘れられている世の中になってきた。団塊の世代も社会の一線から退く年齢になり、物のありがたみを知っている世代がいなくなったら、これからの日本はどうなっているんやろう。なんか末恐ろしいな」と言っていました。

 

 

私は、思うのです。

「なぜ今さらありがとう」なのかと問い掛けをしましたが、

 

もし、社会が私たち一人ひとりの心の反映であるならば、私たち一人ひとりが意識して意図的に「ありがとう」という言葉をたくさん日々思い言って、「ありがたみ」を取り戻していくこと、それが社会を変える方法だと思うのです。

 

そして、有り難いことに「ありがとう」の言葉は、心の底から自分らしく生きるための強力なツール(道具)にもなるのです。

 

 

次回は、私が体験した日常での有り難みに気づいた「彼女に催促したありがとう」のお話をしたいと思います。

 

 

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