『§まっすぐに生きるのが一番』
「第38話:ふれ合う温もりに思うこと」

 

 

哲也が意図しないまま「殺し文句」を言った瞬間から、哲也と優花はお互いを認め合った唯一の存在として、恋人同士の関係になった二人の物語。

 

 

話は前々回に戻り、優花からの電話で、次の日曜日哲也はおばあちゃんの友人の農家に山の幸を食べに行くことになった。

 

 

優花からの『おばあちゃんが是非哲也に会いたいって』という言葉に、哲也は素直に行くことを決め、優花、おばあちゃん、妹、そして愛犬の小鉄というメンバーだった。

 

 

哲也は優花から指定された近所のコンビニに7時に待ち合わせをし、車の中で自己紹介をしながら、目的地である山に囲まれた昔ながらの農家に着いたのだった。

 

 

 

哲也は人見知りと言うほどではないものの、やはりすぐに家族の輪に打ち解けるだけの気さくさは持っておらず、なかなか空気に溶け込めない緊張の面持ちでいた。

 

 

おばあちゃんの友人夫妻が迎えてくれ、おばあちゃんの挨拶が終わると、さっそく昼食の準備に取り掛るため、母屋の方へ案内された。

 

 

と言っても哲也が手伝えることはなく、女性陣だけで昼食の準備に取り掛るようで、哲也は手持無沙汰になりちょっぴり孤独を感じていた。

 

 

そんな心を知ってか、おばあちゃんが哲也に声を掛けた。

 

 

「哲也さん、昼食の準備は女性陣だけでするので、哲也さんは悪いけど、小鉄の面倒をみてもらっていいかしら。首輪からリールをはずしてもらって。哲也さんも日頃は都会での仕事で、こんなのどかな原風景はなかなか触れる機会がないでしょうから、山々の自然を探索しながら自然と共に過ごすゆっくり流れる時間を楽しんでみてください」

 

 

「わかりました」と言いながら、哲也はその方が気持ちがらくで有り難いと思った。

 

 

「あ、そうそう。あまり人が入らない藪の中は、マムシがいるかもしれないので、棒で地面をたたきながら歩くと逃げてくれるから」

 

 

「えっ!マムシがいるんですか?」

 

 

「まーめったに遭遇することはないと思うけど、念のためにね」

 

 

「はあ、わかりました」

 

哲也はマムシと聞いて、探索どころの気分ではなくなっていた。それでもリールをはずした小鉄が喜び勇んで飛び回る後ろ姿を見ると、受け入れるほか選択肢がなかった。

 

 

「哲也さんは好き嫌いはなかったですよね」

 

 

「はあ~ありませんが」

 

 

「優花から聞いています」とにっこり笑うと、踵を返して母屋へと入っていった。

 

 

一瞬意味ありげな言葉に聞こえた哲也だったが、哲也は一人になれた解放の方が大きくほっとして肩の力を抜いた。
小鉄が楽しそうに草花の臭いを嗅いでは移動していく姿を見ながら、朝早いせいもあり大きく伸びをした。

 

 

そして、新緑の季節の陽気に誘われながら、山々を眺め、田畑や草木を見ていると、頭の中が空っぽになっていく自分を楽しみながら、小鉄のいる方へと歩いて行ったのだった。

 

 

 

哲也はきれいに手入れされた田畑の新芽を見ながら、「大根かな?なんだろう?」と思いながら歩いていると、草が茂ったところにわらびやぜんまいを見つけ、感動に似た気持ちになっていた。

 

 

新緑の季節になると、わらびやぜんまいは旬が過ぎて固くてもう食べないのだが、哲也にとってはそんなことより、そこに生えていることが感動でそれだけで楽しかった。

 

 

かなりの時間を探索の時間に使っていたようで、哲也は少し疲れたので草むらに座り、一度やってみたいと思っていた大の字で寝転がり、大きな伸びと共に大きなため息をはきながら、最高の瞬間を味わうように青く広がる空と気持ちが一緒になった。

 

 

すると、小鉄が遊び疲れたのかハアハアと舌を出して哲也に近づき、哲也のお腹にもたれかかるように座り込んだ。
哲也は今日会ったばかりのまだどこの誰かもわからない自分に、小鉄が人懐っこく寄り添ってくれたことに嬉しくなった。

 

 

自然と哲也の手は小鉄の頭へと行き撫でてあげると、目を細めて嬉しそうにしているしぐさの小鉄に、何とも言えない心地よさを感じた。

 

 

そして、小鉄の温かい体温が自分に伝わるのを感じると、自然と小鉄への愛しさが込み上げて来るのだった。

 

 

 

人は大人になると、一般的に人と人とがふれ合う機会が減って来るように思う。その分精神的な人と人との心のふれ合いが増えてくるのかもしれない。

 

 

この4月から、大阪市内の都会から車で通いながら、緑の山々に囲まれた場所で仕事をするようになった。

 

 

ふと思うのだが、都会と田舎の時間の流れる感覚が違う。空気感そのものが違う。

 

 

日が落ちて、都会に戻って来ると煌々と輝く明かりに、また脳が活性されるかのような気持ちに駆られる。

 

 

歩く人もせわしく見えるのは、気のせいなのだろうか。

 

 

都会で生活しているとそんなことは当たり前になっていたのだが、時間に追われるように気持ちもせわしく生活をしているのは、都会だけの現象?

 

 

せわしなくなる分、人は人と人がふれ合う時間も希薄化してしまうのかもしれない。そしてその分、人はまた別の何かにつながりに行くのかもしれない。

 

 

ある国では、インターネット依存症が正式に病気と認定されている。

 

 

ネット依存症を増加させる商業第一主義をよしとしない、人が人として生きる倫理観を無視しない、そんな世の中を創るこころの時代が21世紀のはずだったのだが。

 

 

一歩譲ってふれ合いが希薄化したとしても、温もりを忘れる心までも失わないようにしたいものである。

 

 

いつもお読みいただき、ありがとうございます。

 

 

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