20140414やる気

 

が自己肯定感を高めた心の習慣を創ること。それが子供の豊かな発想力や前向きな考える力、主体性を育む最大の教育になり、子育ての早道。

 

つまるところ、『感謝を笑顔でする心』を親である私たち大人が育むことである。

 

 

『Ⅸ.就職しないできない若者』
「第74話:有り難味が希薄していく私たちの岐路②」

 

 

就職しないできない若者の『未就職予備軍のレジリエンス(回復力)をどう引き出すか?』、キャリアカウンセラー・心理セラピストの観点から、子供や若者よりも、私たち大人に焦点を当てたお話です。

 

 

前回は、混沌とした現代は、安定を求めやすい人間にとって嫌なもの。それだけに、人間はらくな平安を得やすい方へと流れていく。

 

 

この流れにどんどん拍車が掛る現代、この混沌とした状態を抜け出すためには、物質的価値観と精神的価値観が統合した、全体性の新しい価値観で生きる時代の岐路に来ている、というお話をしました。

 

 

今回は、この岐路の時代を生きるためには、どうすればいいのか、どうすればもっと生きやすくなるのかについて、お話をしたいと思います。

 

 

 

まず、私たちが、今の生活からなにか特別なことをして、生活を変える必要はありません。

 

 

大事なのは、今のこの現実の生活をしている中で、どう生きていくかです。

 

 

そもそも、私たちは、どのようになって、どう生きたいのでしょうか。

 

 

ここが一つの大きなポイントになってきます。

 

 

 

昨年NHKの大河ドラマの中で、戦国時代の軍師黒田官兵衛がよく言っていたのが、「戦乱の世を終わらせ、人々が安心して暮らせる世の中にしたい」と言っていました。

 

 

時は過ぎて第二次世界大戦の戦後復興の中で、1950年代後半に「三種の神器」という洗濯機、白黒テレビ、冷蔵庫のブームが起きました。

 

 

その約10年後、高度経済成長のよる国民所得が増加した1960年代後半には、「新三種の神器」として、カラーテレビ、クーラー、カーが普及し、この10年間のカラーテレビの普及率は約90%以上にまでなったと言われています。

 

 

また、徹底した安売りのスーパーダイエー1号店を出店したのが1957年。その15年後の1972年には百貨店三越を抜いて、小売業売り上げが日本一となり、1980年代には小売業界で初の売上高1兆円を達成しました。

 

 

これらの時代背景で共通して言えることは、人々に「希望」がありました。

 

 

しかし、バブル崩壊以後は「失われた20年」と経済は長期低迷期となり、大企業・銀行倒産といった働く安全神話やリストラと言った終身雇用体制も崩れ、そこには将来への「希望」が持ちにくい時代となっていきました。

 

 

それは、バブル期以降この時代に生まれた子供たちが成長していく中で、「希望」が持ちにくい社会や将来への不安を生んだとも言われています。

 

 

それでも物質的な豊かさは企業努力と工夫で安定的に向上し続け、その中で人々は物質的に満たされる心の豊かさから、精神的な心の豊かさである人生のやりがいや生きがいを求めるようになり、それは21世紀に入ると顕著になっていきました。

 

 

その象徴的な言葉が、「自分らしさ」「自分らしく」です。

 

 

今まで過去歴史的に振り返って見ても、人々は外的なものごとが、人々の心を豊かにし幸せになる物質的価値観の観念(思い込んだ考え)を持ってきたと言えます。

 

 

それがこの言葉は、内的な自分自身に向けた言葉なのです。

 

 

 

このような観点から、人々は外的からの豊かさは、自分自身を幸せにするには限界があり、より自分らしい幸せを求めて、内的からの豊かさを求め出したと言えます。

 

 

それは、過去の画一的な教育の中での外発的動機づけによる他律的で受身的な教育ではなく、内発的動機づけによる自律的で能動的な主体性や創造性に重点を置いた、教育の指針にもつながってきているのです。

 

 

 

このような意味からも、私たち大人は、内的で内発的動機づけを大切にした、なにかしらの「希望」の持てる生き方が、これからの時代必要不可欠となってきているのです。

 

 

冒頭でも言いましたが、私たちが、今の生活からなにか特別なことをして、生活を変える必要はありません。

 

 

ただ、自分自身に、
「私は、どのようになって、どう生きたいか」を問いかけることです。

 

 

「明日から何をすればいいのだろう、なにかしなきゃ」と外的なものに求めるのではなく、内的な「自分自身がなにを大切にして、その生き方を生きること」です。

 

 

それは日々の子育てや家庭、仕事などで、自分がどう思って生きるかだけです。

 

 

「誰かのために」は一見聞こえはいいですが、自分ではなく相手に自分軸を渡した生き方です。

 

 

「誰かのために」は、「やってあげたのに、やってあげてるのに」と言う、相手の評価を気にするような義務や役割になってしまうのです。

 

 

まず、自分がこう思うから、このような思いがあるから、誰かのためにやってあげたくなる。

 

 

この思いが大切で、それが「無償の奉仕であり、無償の愛であり、自らが選んでしたことに責任が持てる生き方」になるのです。

 

 

その生き方が、自分に嘘をつかない生き方になり、私たち大人自身の社会を生きる「希望」の現実を創るのです。

 

 

その大人の生きる姿が、子供や若者への生きる「希望」になるのです。

 

 

 

最後に、こんな昔話を思い出しました。

 

ある大人が子供に、
「そんなことをしていたら、立派な大人になれませんよ」
その言葉に子供は、悪びれた態度で掛けて行った。

 

 

さて、現代の子供に、
「そんなことをしていたら、立派な大人になれませんよ」
「立派な大人ってどんな大人?」
その言葉に大人は、しどろもどろになりバツが悪そうに去って行った。

 

 

昔は、なにかしらの生きる社会的定義があったのかもしれません。

 

 

今私たち大人は、この子供の質問にどれだけ答えられる生き方をしているのでしょうか。

 

 

「簡単そうに思えて案外難しい」と思っている場合でないのが、
これからの時代なのです。

 

 

次回は、さらにこの岐路の時代を生きるためには、どうすればいいのか、どうすればもっと生きやすくなるのかの続きを、お話をしたいと思います。

 

 

いつもお読みいただき、ありがとうございます。

 

 

 

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