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◆心の底から自分らしく生きるメソッド◆

「光曉和尚の愛と心のセラピー物語」

~私、自分らしく人生を生きます~

 

※はじめてこられた方は、

この物語の『登場人物』・『あらすじ』を 先にお読みいただければ幸いです。

 

 

§ 再度ありがとうの実習の大切さ③

 

前回、和尚は、『幸せ』以外にも『ありがとう』から派生した言葉があり、また自分の意識の広がりや『気づき』について写真を使って、実際に体験してもらった。そして、その意識して見ることが、なぜ忘れていってしまうのかについて、これから話をしようとしたのだった。

 

「有里さん、瑞枝さん、誠くん。写真のひよこちゃん探しで、だいぶ『ありがとう』の実習がイメージできたと思います。そして、自分の意識を広げる感覚も理解できたのではないでしょうか。では、なぜ、私たちは、この意識して見ることを忘れていってしまうのでしょう。

 

内的な心理的要因と外的な環境要因の二つの観点からお話したいと思います。

 

まず内的な心理的要因なのですが、

私たちが見るものごとを、これはこういうもんだと思い込んだり、

子どものように感情を出すのは大人として分別に欠けるとか、

いい大人がとか、食い気が張ってるとか、変な子と思われるとか、欲が深いとか、

いろんな制限を自分の思考や心に掛けてしまっていることが考えられます。

 

そうすると、どんどんものごとを単一的に狭い視点で捉え、感情を感じることも制限されるようになり、つまり、意識の視界が360度あったものが、目に見える視界が狭まった意識でものごとを捉えてしまうようになるのです。

例えて言うなら、円柱形のガラスコップを上下左右あらゆる角度から立体的に見ていたものが、真正面から見ると長方形に、真上から見ると丸に見えるように面で捉え、意識の広がりも同じことが言えるのです。

 

前回の話を例に取ると、少し極端ですが、ネコを見て『ネコ』、

花を見て『花』、そこに咲いてることすら気づいていないかもしれないですね。

『目を引く服』とか、譲り合っているのを見てただやり過ごして『・・・』とか、

『電車が来た』とか、『青い空』とか、『スマホを見て笑ってる』とか、

『高校生は期末テストか』とか、『ほしいカバンを持っているんだ』などと、

あまり感性を働かさずに視覚だけでものごとを捉えるようになるのです。

 

さらに考えられる外的な環境要因として、

私たちの生活している社会が、物質的に豊かになったのはいいのですが、今度はものが余りだして品不足に困ることはなくなって、そのおかげで生きることへの不安が減って心が安定したのですが、

ものがいつもあるのが当たり前になっていき、気がつくとそこに『ありがたみ』の意識が薄れてきた時代にもなってきたのです。

 

また、様々なことが便利になり、その便利さに慣れ過ぎてしまうと、それが当たり前になり、その物質的な恩恵の裏側で、ものごとをあまり考えずに、らくで簡単に人の欲求を満たしてくれる便利な時代にもなってきたのです。

 

それがまた、私たちの疲れた心を軽減してくれたり、渇望した心を満たしてくれるものだけに、知らず知らずのうちにその習慣になれていくと、らくで簡単に手に入る自分の欲の損得でものごとを決めるようにもなってきたのです。

 

他にも経済が成熟したことや生活スタイルの変化などの理由もあるかもしれませんが、大きくこの二つが意識して見ることを忘れさせてしまう理由だと考えられます。

 

そうなっていくと、ものごとを表面で捉え、ものごとを深く考えたり想像することもあまりしなくなり、短絡的にものごとを選択するようになっていき、その結果、ものごとに流されやすくなり、情報に流されやすい生き方にもなってくるわけです。

 

そのことは今までお話してきたように、『ありがとう』という『本来有ることは難しいものごとが、有り得ることへの感謝=有り難い』、すなわち『ありがとう』の中にある『有り難み』も希薄化してきているのです」

和尚はここで、次の話にいく前に一旦言葉を止めたのだった。

 

つづく

次回明日10月28日(月)は、引き続き、

メソッド実践編:「再度ありがとうの実習の大切さ④」をお話します。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございます。 心より感謝いたします☆

 

※この物語は、実話にもとづいたフィクションであり、登場する人物など、実在のものとはいっさい関係がありません。

 

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